男はいつも花束をもって入口に立っている。どこで出会ったのかももう覚えていない男だが、かたがきだけを俺はしっていた。いつものお得意の忘却術で、俺は必要な情報しか蓄えておかないことにいしている。だから名前も忘れたってくらいだ。
そして、埼玉では有名なグループのリーダー、それはたしかに彼の情報であった。
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最初に家にやってきたときは本当にぞんざいだった。
「こんにちは折原さん、お花を一本いかがですか。」
俺はしばし沈黙したあと、間に合ってますから、といってドアをしめる。すると片足を扉にはさまれる。
「警察よぶよ、こういうことされるとこまるんだけど。」
「いや、ほんと、これだけ受け取ってくんない?」
彼は苦痛を感じているのか、へらへらした笑顔をひきつらせて俺にそれを手渡し、急いで足をドアからのける。俺も男だからセールスマンのような手口でなんとかできるたまでないことを理解してほしい、と思う。思いながら、その手元を見つめるとにおいのきつそうな花が咲いている。不可解だなぁ…。俺はそれを机に投げ捨てると、それをしばらく凝視して、そして寝室にこもった。今日は日曜だというのに、俺をもって寝かせてほしい。
俺が目覚めるころには波江さんがきて仕事していた。彼女がすでに最近のファイルの整理など雑務をこなしてくれていたので、俺はにこにこして「やぁ、朝から悪いね。」といった。波江さんはこっちをちら、とみて、寝ぐせついてるわよ、と指摘しただけだった。俺は頭をぽんぽんと触って、本当だ、とつぶやいた。別にこんな姿を見られるのも初めてというわけではないが、さすがに直してくるべきだろうと洗面所へ向かう途中、花が机になかったことを思い出した。
「ねぇ、波江。ここにあった花は?」
彼女は棚の上を指さした。そこには真っ赤な花がさいていた。花瓶の中でみずみずしく。俺はまったくこの有能な秘書に感心してしまう。
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休日になる。すると俺は行きつけの喫茶店などに行ったりもする。だけど、いかない日もあるし、たとえばそれがいつもと違う喫茶店ということもある。つまりそこに俺がいたのはまったくの偶然。
だから俺は彼の強運をこれはほめたたえるしかない。彼は俺にひらひらと手をふる。行きつけの喫茶店に彼は平然とした感じですわっていた。俺は長い溜息をつく。
「うん、本当不快だよ。ストーカー行為の続きかな。」
それは降参の合図である。男はにこりと笑ったあとで目を輝かせて言った。
「会えると思っていなかったから感動してる。まさかこんなところであえるなんて。」
そのことばのすべてがすごくはずかしいような気がして目をそらしてしまう。
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彼はずっと先の日もやってきて、毎回あまったるいような言葉をはいていく。同時にやってきた記念に、なんていって同じように花を一輪もってくるのだ。
あるとき俺は花の手入れなどが面倒になって尋ねる。
「なんで花なの。もっと食べられるものとかにしてほしいんだけど。」
まぁ、波江がだいたいの世話をしてくれていたのだが、その恋人にするみたいな行動について興味があったから、というのもあった。それで何の気なしに尋ねたのだ。どうして花なのか。
「だってきっと折原さんは余計なものを生活に持ち込まないから。」
彼は手にもっている花を手の先でくるくると丸めて指輪のようにしてしまう。そっと目を細めて、まるでそれが自分の幸せだというようにつぶやく。
「だから、俺が持ち込むの。」
あとね、この花はにおいきつくいでしょう?気付いてもらえるかな、と思って。
絶句だった。
呆れてものも言えない。いや、ものがいえないのは呆れているだけじゃないだろう。とにかく俺は絶句した。いつもの饒舌はどこかへ吹かれるように消えてしまって、男の視線が俺を縛り付ける。それは今までみたことのない種類の目線だった。
俺は後ずさりする。目の前の男は「俺の名前覚えてる?」とつぶやく。
「知らない。」
「じゃあ教えるから。」
「呼ばないし。」
「いいから。そうだな、ちかげってよんでよ。折原さん。あとさ、ちょっとのどかわいたな。」
俺のことをちら、と見る。はぁ、なんて図々しいやつ、て思うところだろう。普段なら。
だけど、でもそうだな、今回ばかりは部屋にいれてやってもいいかもしれない。まぁ、お茶を出したらすぐにお暇いただきたいのだけどね。
と思ったら最後、彼は俺の生活のスペースをほんの少しばかりだけどもっていってしまった。後悔先にたたずである。