水と、空の境界線が少しわかりづらい。すべてが、青に染まりそうになっている。屋外の飼育プールを歩くと、おそらく誰もが抱く感慨を、俺も熱い頭の中で抱いていた。青以外の何も、俺の目には入ってこない。青、青、青。絶対的な青の世界だ。
「熱いからかな…このままだと絶対水に足滑らすな…。」
独り言をつぶやきながら、そっと自分の口元に指を添わせる。なんとなく顔がほころんでいるのはやっぱり気のせいなどではないのだということを確認するためにそうしたのだった。それは毎日行われる。逢瀬といってもいいかもしれない。俺の愛しい人はここにいるのだ。

 野外プールを抜けた先にちょっと薄汚い倉庫みたいなところがあって、そこでは屋内で飼育しないとまずい魚をいれるプールがあった。そこが俺の担当で、俺は毎朝そこの魚のえさをやったり、水温のチェック、死んだ魚の処理などを行った。しかし、それにしても早すぎる時間に俺はそこにたっており、もちろん俺以外のだれもそこで作業をしていたりしない。
 水槽の外で、いつもの決まった動作、淵を三度叩く。
 そして俺は腰をおろして、しばらくの間『彼』の来訪を待つ。その時間さえも楽しみだ。その時間俺はいろいろなことを想像する。彼はあまりにひとの言葉を知らない。今日はどんな言葉を教えてやろうか。どうやって、彼に、俺の気持ちを伝えたらいいのか。
そのまましばらくすると俺の目の前にぴしゃ、と水しぶきが飛んだ。ああ、人魚だ。俺はその姿に目を細める。彼は、そろり、と姿を現しては、水面から少しでると勢いよく水をはねてまたもぐってしまう。その繰り返しを何度も繰り返したあと、俺は笑って、そしてそこで初めて話しかけた。
「いいよ、青葉、そこにいていいよ。」
話をしよう。俺はそのもぐっていった魚とも人間ともしれぬ存在に語りかけた。

 青葉は俺の担当する水槽でひっそり暮らしていた人魚である。人魚というと語弊があるかもしれないので言っておくが、彼は二本の足を持っている。だから、形態は人間に近い。だが、それでも人間からすると遠いとしか言えない存在だった。肺のかわりにえらをもち、ところどころに鱗のようなあとが存在する。
 彼を見つけたとき俺の対応はだからひどいものだった。人間の少年が足を滑らせて溺れているのだと思った。無理やり引き上げると口をぱくぱくさせながら言った。「水にもどしてくれ、息ができないから。」と声には決してならないのだが、それでも何かを伝えようと必死に口を動かしていた。それをみて、俺はこいつはもしかしたら人間じゃないのかもしれない、と初めて思ったのだ。
彼は陸では息ができないために、口をもごもご動かすことで俺に何かを伝えようとする。それは最初からかわらない。そして、俺はこの、人間でも、魚でもない存在に恋をしている。それは最近知った事実だった。

「青葉の周りを泳いでいるのは『魚』、この、冷たいものは『水』」
 さかな、みず。青葉は口で俺の口の動きをまねる。
「俺の名前覚えてるか。」
 そこで彼は目をぱちくりとさせて『六条さん』と言った。俺は毎日尋ねている。俺の名前を呼ばれたいのだ。彼はあまり俺に興味がないようにも感じる。ただ、漠然と呼ばれたのでここにいるというような。そんな不安を解消するために呼ばせているのだ。だが、その日は暑くて、まだ、俺のための質問をしてもいいような気がした。
「下の名前、わかる?」
 彼は少し考えてから『ちかげ』と発音した。もちろん声はでないのだが、俺は口を押さえてそっぽを向いた。ただ単純にうれしくて、頬を赤らめているのを見られたくなくて。
水面に目線を戻すと、水面の下で青葉は心配そうにこちらをみていた。俺は水槽に手を伸ばして彼の頬に触れるとそのまま水の中へ頭をつっこんで唇をさがした。
『ああ、これか。』
 俺はやっとみつけたものにふれるように口づける。それはちょうど水面とするような位置でなされたために、波が唇にくすぐったくて身をのりだす。青葉の顔がみれないのは残念だったけれど、今目をひらいてもそれはとてもぼやけてしまうのだろう、と安易にわかっていたのだ。
 潮のにおいも、すべての感覚がシャットダウして、ふれた柔らかい感触を味わっている。ああ、俺が海で生きられたならよかったのにと願う。そう、切実に願ってしまう。その、バランスがくるったために俺は脚を少しすべらせて青葉を抱きしめてしまったのだ。

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 夕方、目をさますと、俺は天国にも、海の中にもいなかった。救護室で寝かされていて、看護の先生にひどく説教をうけたうえに家にまで連絡されてしまった。外の、まだ日の光を照り返す水面をぎり、とみつめる。なぜ俺もつれていってくれなかったのだと。